わたしには感じる心があって
考える頭があってそれを自分なりに言葉にすることができる。 その言葉は手探りだけど文章になりこうして誰かに読んでもらうために発信できる。 言葉の使い方が間違っているかもしれない。 もっと適切な言い方があるかもしれない。 読みにくく伝わりにくいかもしれない。 でも、一番素直に責任の持てる手段でこうして発信できる。 取材を申し込まれることがときどきある。 自分の言葉を誘導される恐怖。 自分の言葉を編集される恐怖。 自分の言葉が伝わらない恐怖。 そこから多くの人への伝播、それぞれの解釈、勘違いの恐怖。 なんのために受け答えするのか。 なんのために多くの人にわたしを知らしめるのか。 それはなんのための情報になるのか。 取材を受けても受けなくても趣旨を理解しようと努力する。 自分を顧みたり、問うたり。 結構しんどい作業だと思う。 取材を受けるのは一時間程度でも、その前にたくさんの意識を奪われる。 なんのための取材か。 取材のために割くさまざまな時間。 本来待たせてしまっているお客さまへ割くべき時間ではないか。 時間を作って足を運んでくださる方に真摯に向き合うべき時間ではないか。 拙いなりに自分で言葉を発信できる。 HPとFacebookとTwitterと、わたしに興味を持ってそこから情報を得てくれる人がいる。 それで十分じゃないか。 埋もれて忘れ去られるならそれ程度。 名前も顔も分からない何百人かに届ける言葉よりも、その人の指が動き触れて訪ねてくれたわたしの発信する言葉の方がリアリティーがあると信じたい。 いいね や フォロー、商品の公開もしていない場へこうして時々訪れてくださる方々。 会えなくともとても近い距離感を感じる。 今目の前にいる人のことを大切に思いたいし、大事にしたい。 |