NYでお世話になっていたご夫婦の奥さん、たえさん は
ワールドトレードセンターで働いていた。
15年前の9月11日、朝娘さんをアップタウンの学校に送り届け、
いつもはオフィスで飲むコーヒーをその日は街のカフェで飲んでいた。
いつもと変わらないけれど、ほんの少しだけいつもと違う朝のコーヒーを飲みながら
自分の働くビルに飛行機が突っ込むところを見たという。
必死にビルのあるダウンタウンに背を向けてアップタウンに向かって走ったそうだ。

その頃ご主人は自宅でニュース速報を見て、既にそのビルに居るであろう たえさん を思い
絶望の淵にいたと言う。

NYに住む人に簡単に9.11のことは自分から聞けない と思っていた。
3.11のことをたくさん聞かれたのでわたしも9.11のことを聞いてみた。
仕事と仕事の仲間失った たえさん にこれ以上のことは聞けなかった。
けれど、遠い国の過去の出来事ではなく、わたしの大切な人の記憶として
9.11という日が他人事では無くなるのは大切なことだと感じた。

15年前の9月11日、わたしは文化の一年生で、
翌12日が提出期限のスカートを前日に2着提出し、
疲れ果てて夕方 寮に帰ってから翌日の朝まで寝ていた。
飛行機がビルに突っ込むところも、ビルが壊れていく姿も
この世の終わり のような報道番組の混乱もリアルタイムでは見ていない。
翌朝のニュースで自分が寝ている間に起こったとんでもないことに
寝ぼけているような気分で学校に行った。

9.11を経験したから、NYに住む人々は互いに寄り添い優しさを持つようになったと言う。
だからわたしにとってのNYはお節介な人のたくさんいる優しい街なんだ。
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自分の世界はある意味自分ひとりで完結することもできて、
あの人もこの人もいるけれどその人の気持ちはなんだかんだ言って分からないし、
分からないなりに こうかなぁ って 自分でいろいろな気持ちを当てはめたりして日々過ごしている。
だから自分の生きる世界は自分が主役で完結して隙が無くて面白味がある。と思える時もある。

お芝居を観るときは別の世界を覗くことになる。
多くのスタッフ、キャストによって出来上がる世界はひとつにまとめることはとても難しい気がする。
どこかに隙ができたり、間が抜けて感じたり、何しろその世界に没頭させてくれない要素が散らばっていたりすることもある。
だから、なんていうか、不完全であってもひとつにまとめることはできると思うし、整うことが完全ではない 。

とりとめもなくて ごめんなさい。

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劇団どくんご のお芝居を観に行った。
開演10分前に到着すると、テントの外に人がちらほら。
開演まで煙草でも吸って待つ人たちかな、と横目にテントに入り受付をする。
ほぼ満席、びっしり席は埋まっている。
毎度お芝居では遠慮気味に空いている最前列に座ることになる。
腰を下ろして折り込みやアンケートなどを整理し、舞台や会場内に目を向ける。
一つ一つが手作りであることは一目瞭然で、その全てが砂っぽく、汗っぽく、旅の記憶を纏っている。
「 完璧だ 」
と思った。劇団どくんごはこのテントの中を完璧な世界に仕上げている と。
五分前になり外に待っていた人たちがワクワクした顔で場内に入る。
こんなに楽しみにしている他人の顔を見ることなんてあるのだろうか… というほど、みんなの顔がいきいきしている。
完璧な世界とそれを待ち望んで劇場に入る人、それを見ていたら涙が溢れた。
なんと、客入りから涙である。

楽隊の音楽が始まり、たくさんの出し物が続く。
ぐぅーー っと心に響く言葉が時々現れる。
ぐぅーー っと胸に迫る演技が時々現れる。

つまるところ、言葉 が伝わるのではなく、それを発する エネルギー が伝わるのだと思う。
ひとつの言葉を生み出す火種、エネルギーが心を震わせるのだと思う。

劇団どくんごは エネルギー の塊 で、
そのエネルギーに感動する。

そう、言葉なんて本当は必要ないんだ、
まずは 気持ち、こころ。

その こころ の場所を探せるのが劇団どくんごのお芝居だと思った。

お芝居の最後、涙が止まらなく流れた。
どこにいるのか、いつなのか、全くわからなくなる時間に包まれた。

終わってからもこころがふるふる、涙を流しながら駅に向かって帰った。

とっても楽しかったんだ。
子どものころ、一台のテレビ、同じ番組を家族で見て、晩御飯やその次の日も面白かったテレビの話をする、マネをする、ふざけ合う。
そんな記憶が蘇った。
だから劇団どくんごのお芝居を見た人たちとふざけ合いたいし、どうだった、こうだったと話がしたい。
非日常を今度は日常に溶け込ませたい。

なんどもなんども時々思い出す、いろいろなシーンを、いろいろなセリフを。
夢のような時間を。