今日は心がえぐられることがありました。
想いだけでは続けられない ということを思い出しました。 心が体が パタリ と扉を閉めてしまうこともある。 ものを作ってきた中で一番悲しかった日のことを思い出しました。 慰めようもない出来事は、忘れるのではなく こうして時々思い出して 今自分のいる位置や場所や在り方を確認する そんな材料に、肥やしにしてしまえ。 そして今続けられるカタチを見つけられたことに改めて深く広く感謝。 |
少し長い期間 何処かへ出かけるとき必ず持っていく本がある。
今日はなぜかその本を無性に鞄の中に入れて出掛けたくなった。 ひとり旅をしているような、言葉のうまく通じない場所で過ごすような そんな心持の今日この頃なのかもしれない。 |
センス の身に付け方をわたしに教えてくれた人がいる。
その人のもとで5年働いた。 何も知らなかった。 だからたくさん色んなものを見せていただいたし色んなことを教えていただいた。 その人は古いものを好んで集めていた。 最初は共通性が見えなかったけれどだんだん、だんだんわかるようになってきた。 人の手の温もり、想い、そこに見える仕事ぶりをその人は集めていたように思う。 その人の好みは分かったけれどそこに宿る、自分に置き換えられる本質のようなものはまだ見つけることができていなかった。 だから こういうものを作りなさい と言われてもどんなものを作ればいいのかわからず、 カタチを真似たり、色合いを真似たりそんなことしかできず、 『いいものを見てるんだからいいものを作らなきゃいけないんだよ、作れるはずだぞ』と腹を立てられたりしたものだ。 分からないから誰よりも資料部屋と名付けられたとんでもない数の服が置かれた部屋によく行った。 分からないからボスの集めた世界中の素晴らしい写真集もたくさんたくさん見た。 分からないから作ったものたくさん見てもらってたくさんボロクソに言われた。 だけど分からないなりに作る感覚は少しずつ身に付いていたような気がする。 ある日 駅ビルのエスカレーターを下っていると書店の平置きコーナーにあるとても美しい表紙の本が目に入った。 『 ひろしま 』と書かれたその表紙には古い花柄のシャツが写っていた。 美しさに意識を奪われ、どんな内容の本か考えることなくページをめくる。 美しさと悲惨さのコントラストが強すぎて混乱した。 この本は写真家の石内都氏が撮った原爆遺品の写真集だった。 原爆が落ちるまでここに載っている衣服たちは日常を彩るものだった。 戦争 = 灰色、セピア 色の無い景色のイメージしか持てなかったけれど、こんなにも美しいものが日常にあったことに初めて気付いた。 そしてその衣服には 人の手 が感じられた。 近所の洋装店で仕立てたものか、お母さんやおばあさんの仕立てたものか、近所の器用なおばさんが作ったものか… どの衣服にも着ていたであろう持ち主とそれを作った人が浮かびあがって見えた。 未だにうまく言葉にできないけれど、 こういうものをわたしも作れたらいいな と想いが湧いてきた。 悲しい歴史はもういらないけれど、どんな時代になったとしても日常を彩れるものを作ることができたらいいな と。 自分の作るべきもの、作りたいものに向き合えた瞬間だったと思う。 日常を彩る尊さを大切にしていきたい。 と。 それからも相変わらず怒られたけれど怒られ方は変わった気がする。 2011年3月11日、東京で経験した東日本大震災。 それを機に見えたこと、感じたこと、考えたこと… 大きな違和感を抱えてその人のもとを震災半年後に離れた。 その頃には自分なりのセンスが身に付いていたんだと思う。 だから大混乱と悲しみの中、自分のするべきことを見出せたんだと思う。 |